アメリカ人とのコミュニケーション

英語がツールであることを忘れてはいけないと思う。表現したいことがなかったり、伝えたい、コミュニケーションしたいという思いがなければ、英語をどれだけ自由自在に操れるようになったとしても、それが何だろう?英語を研究しているわけでもない私が英語だけを極めることにはあまり意味がない。つまり、私は、表現すべきことの方を英語よりもっと勉強しなきゃいけないということを、忘れてはいけないということ。

英語が特別上手に話せないことで、必要以上に自己評価を低く見積もるのは、この間やめた。私は、母語でもない英語を使ってコミュニケーションを取ろうとしているんだから、アメリカの人と同じように話せるわけがないんである。多少うまくいかなかったことくらい、気にする必要がない。と、心臓に毛を生やした。

先日の渡航で消極的になるのと面倒くさがるのをやめようと決めていたけど、いつでもどんな時でもというわけにはいかなかった。よく聞く話ではあるけれど、日本人がまったくいない状況だと、無茶苦茶な英語でもがむしゃらに使ってみたりするけれど、他の日本人がいると、恥ずかしく思ったり、見栄を張ってしまったりして、英語を口にすることができなかったりするものである。今回、医学文献を読むCEコースに出ている時には、先生が初めに「発言しないのは唖と一緒です」というようなことをおっしゃったものだから、それはもう、20人の受講者は初心者的な質問をしたり、「うちの図書館ではこうなんですが」というような経験を語ったりと、賑やかにディスカッションが繰り広げられたわけである。まるで、話さないと存在がないのと同じだと言わんばかりにほとんど全員が発言していた。でも、日本人は、自己紹介以外は、3人合わせて1言くらいしか話さなかった。
正直、私に関して言えば、みんなが話していることは、半分以上聞き取れなかった。先生の話も半分くらいの理解だ。でも、何も発言できなかったかと言われれば、何かいうことはできたと思う。でも、ベテランの先輩2人に英語力のなさがばれるから黙っていたいとつい思ってしまったり、先輩が発言してからにしようかなと思ったり、いろいろ自分に言い訳をして、黙っていた。我ながら嫌だなと思ったので、その次のコースでは、積極的に発言してみた。普通のことができたと思って、参加している感じも増して、嬉しかった。

ハナウマ湾からの帰り、乗合バスで4人のアメリカ人と一緒になったけど、初めはほとんど話さなかった。というか、話せなかったのだ。初めは英語が速すぎて何言ってるのかわからなくて。でも、そうしていると、なんとなく「この人黙ってて変な人」と思われているような気がして、落ち着かなくなってきた。ずっと聞いていると、みんな観光客で、あのレストランが良かったとか、オアフ島よりやっぱりマウイ島の方がいいんじゃないかというような話をしているのがわかってきた。意味がわからないと深遠な会話をしているように思うけど、内容を理解してみるとたわいもないことをしゃべっていた。よくある話だ。そんな話なら私も入れる。それで、だんだんと話して、変人というレッテルをはがすよう努めたりした。

帰国すると、強迫観念から解放された。お店に入れば「Hi!」とあいさつし、初対面の人とは笑顔を作ってあいさつと握手。知らない人と乗り合わせれば他愛無い話を英語で。何人か寄れば、とにかく何か話してコミュニケーションする。というようなことをもうしなくていい、と思って。でも、英会話のアメリカ人の先生に「一言も話さなかったら変人と思われている気がした」と言ったら「そんなことないんじゃない?静かな人、って思うだけだよ」と言われて考えすぎだったのかなーと思った。