福島県の避難所に行ってきました

5月はじめ、福島県会津若松市の避難所に1週間勤務した。

3月11日に東日本で地震があり、被害のひどさをテレビや新聞で知った。
東京方面の友人たちは帰宅難民になったり、職場が被災したりといろいろな被害を受けていた。私は、飲み会や遊びの予定がなくなったり、あるいは関西は元気に過ごさないと!と言ってあえて実施してみたりした。

でも、一番被害のひどかった東北地方には、私の家族や、親戚や、親友なんかはいなかった。そもそも1回くらいしか訪れたことがなくて、なじみがなかった。1か月たって、テレビ番組も元に戻り、関西で節電しても意味がないと報道され、毎日の生活は何の不足もなく、日に日に地震のことは他の国で起こったことのように遠くのできごとになっていった。いや、もともとそうだった。

震災後すぐに、医療関連の、また図書館関連の災害対策ボランティアチームなんかが、何か役に立てることはないかと動き出していた。私も、Web上で出版社やベンダーから無料で公開されている情報をまとめたりしたが、全然実感がわかない。何をやってるのかわかってない。

年度が改まって仕事が忙しくなる中、何かしなきゃ、という気持ちも薄れていったが、どこかで、あの地震の後のことがこんなに人ごとなのはおかしいと思っていた。

当初は体力がないので足手まといになるだけだからと行くつもりのなかった災害派遣業務に応募したのはその頃だ。職場から、毎週福島県に送り出している派遣業務。

先に派遣された人が「自分がいなくなって路頭に迷う妻子もいないから」と言っていた。考えてみると、私には夫も子もいないので、誰よりもこの業務には適していると気付いて、私にもできるかもしれないと思った。

福島から戻ってきて考えると、業務はがれき撤去でもなく体力がさほど必要なわけでもないし、放射線レベルは低い場所だし、そんなに応募をためらうこともなかったのかもしれないと思うけれど、被災地に入るというだけで、繰り返し放映されたテレビの映像が思い出されて、それなりの覚悟を決めないといけないような気持ちだった。


そうしてのりこんだ福島県会津若松市の避難所。前任者から引き継ぎを受ける時、受付や物資置き場の説明を受けた後で体育館の中に入るときに「この先は、避難者の方々が生活されている場所です」と一呼吸あってから中へ入った。そこには避難してきた人たちの生活空間があった。初めはそちらを見ることすらはばかられる気がしたけれど、私たちは避難所の運営をするために派遣されているので、すぐに必要に迫られて、食事を配膳したり、窓を開けたり、お布団を運んだり、寝ている人に食事が必要か聞きにいったりして体育館の中を縦横に歩き回ることになった。

避難所は、会津若松市福島県京都府の職員とボランティアさんが連携して運営されていた。行政の人たちは次々引き継ぎをしながら交代していくが、ボランティアさんは毎日のように来られている方が数人いらっしゃって、心強かった。
ボランティアさんは、避難所の受付をする。新しく来られた方の荷物を運び、足りないものを聞き、必要なものをそろえる。出て行かれる方の引っ越しの手伝いをして、送り出す。炊き出しをする。ごみを出す。さまざまな相談に乗る。世間話をする。子供の世話をする。などなど、避難者の方々と信頼関係を築き、あらゆるお世話をされていた。

思い立ってすぐに参加できる短期のボランティアがお役にたてる場所もたくさんあるけれど、毎日仕事のように朝から夕方まで、地味な仕事を淡々とやっていくボランティアさん、こんな人たちが世の中にいるんだということを目の当たりにして、心の中で手を合わせるような気持ちがした。

普段は、自分の寝ているところやくつろいでいるところなんて、誰にでも見せるものじゃないけど、ここでは見知らぬ人が50センチほど隔てたお隣さんで、丸見えだったりする。お布団の上でご飯を食べるなんて本当はしたくないだろうけど、そこしか食べるところがないし、毎日誰かが決めたメニューで食事をするのも、体育館のシャワーとトイレを共有するのも、何ヶ月も続くのはどうかと思う。

そして、若い男性をちらほら見かけるのに仕事に出かける人がいないのを当初は不思議に思っていたのだけど、内陸部の会津若松市から避難者の多くが住んでいらした海沿いの南相馬市浪江町双葉町大熊町などの街までは130キロも離れている。仕事が今もあるのなら、こんなに離れた場所まで避難してくるわけがない。仕事をしていたけど、地震津波放射能、いろんな理由で辞めざるをえなくなって、ここにいるのだろう。

仕事があって、1週間だけ来て食事の配ぜんやごみ出しをしている自分が、避難してきた人たちからどんな風に見えるんだろうと気になった。しかし、来てしまったのだからできることをするしかない。食事、物資の仕分け、物資マップ作り、受付などをしているうちに、だんだんと住んでいる人たち一人ひとりの顔が見えてきた。

物資はたくさん届いていた。食べ物、飲み物、おむつやマスクなどの保健用品、下着、割り箸や紙コップなど使い捨ての食器。
でも、今後のことを考えると全然足りない。水のペットボトルなどは置いておくとどんどんなくなって、なくなる日が1週間後くらいに見えていた。気温が上がってきたので、布団や毛布は今までのものより薄いものが必要になってきたが、そういうものはない。衣替えも必要だし、毎日替えたいであろう下着もあまりなかった。洗濯機も共有だ。
それと同時に、廃棄するものも多かった。汚れたりシミがあって使えない布団や毛布。賞味期限のきた食糧物資。日々配ぜんするご飯も、毎日捨てなければならないのは一番つらかった。私たちは非常食を持っていったが、食べるものはあふれていて、持参したものを食べる必要はなかった。避難所から出ず運動をしていないのに、捨てるのをもったいながってご飯をおかわりして食べていたから私は体重が増えたくらいだ。

先が見えない。家がちゃんとある人もいるが、帰ることが許されない。一体いつまで避難していなければいけないのか。


5月5日こどもの日は、もちつき大会があった。前日から避難者の有志の方々はもち米を水につけて準備を始めた。当日は朝からすばらしくいい天気で、野外のテントの下で、炊き上げたお米を杵と臼で次々とついて行った。子供たちが「よいしょ、よいしょ」と言う掛け声が最初は小さかったのに、最後にはものすごく大きい声になっていた。

私はまだあまり周りの人たちの顔も覚えられず、盛り上がりに乗り遅れて、体育館の中で雑用をしていた。お昼前には、いろんな種類のお餅ができてきた。「皆さんに外で食べていただきましょうね」とボランティアさんが言っていたのでパイプ椅子を出していたら、納豆餅、雑煮餅、きなこ餅、あんころ餅などがどんどん作られていて、食べて食べて!と勧めてくださった。いつもは体育館の布団の上でご飯を食べている人たちも、青空の下でお餅を食べた。お餅はそこにいる人は誰でも、何杯でも食べてよかった。私も、食べたことのない雑煮餅や納豆餅をいただいた。納豆とお餅が合うなんて知らなかった。本当においしくて、少なくとも6個くらい食べたような気がする。

お餅が片づけられて気がつくと、体育館の入り口でおじさんたちが何人かまだ残って、日向ぼっこをしながら話していた。いつも体育館の奥にいて話したことのない人たちだった。手招きされて一緒に座って話をしたら、浜通りの素敵な町の話をしてくれた。どんなに気候が良くて、海がきれいな場所か。海から少し離れた場所に住む人も、自分の住む町は緑が豊かで心地よい場所なんだと話してくれた。

正直なところ、津波が来た場所や原発の近くの街に戻りたいとかそこがいい所だとか思うことは、それまで理解できなかった。でも、本当に地元を愛していい場所なんだと自慢する人たちの話を聞いたら伝わってくるもので、元々住んでいた人も帰れないその地に、とても行ってみたくなった。

人間関係って1週間で築けるようなものではないけど、毎日寝泊まりしているとだんだん顔見知りになってくる。故郷の話、残してきたペットの話、家族の話をしてくださる方もいる。皆さんが何度も何度も「遠くから来てくれて、ありがとう」と言ってくださる。そんな、崇高な気持ちで来たわけではないので、申し訳ない気持ちになってしまう。業務として当然のことです。お互いさまです。

ひとつ思い出すのは、禅の修行をしていたという避難者の方が「人間本来無一物というでしょう。周りの人には言いませんが、私は避難所にいても幸せです。」と言っていたこと。避難所に来るまでの環境は千差万別。同じ環境でも、人によって感じ方はいろいろなんだなと。

会津若松市福島県の職員さんともお話しできた。門限を過ぎても帰ってこない男の子を待ちながら、浜通りだけでなく会津若松、また福島県全体の名所やお祭り、おいしい食べ物の話なんかを聞かせていただいた。福島県の人たちの東北特有のイントネーションが、関西ではたまにしか聞かないので他人行儀な感じがしていたのが、ここではみんなが東北弁で、「〜だっぺ」と毎日聞いているうちに耳に慣れて、暖かさを感じるようになってきた。特に長く話している時の抑揚や濁った言葉に、はにかんだような魅力を感じ、関西弁や標準語が、平たい言葉に思えてきたくらいだ。いいなと思っているうちに、だんだんと話し方が似てきたように思う。誰にも言われたことはなかったけど。関西人がエセ関西弁を嫌うのと同じで、中途半端な東北弁をしゃべったら、バカにしてると思われるんじゃないだろうか。東北人はそんなこと考えないのかな。


ところで、私は他の二人の職員さんと物資置き場の片隅に寝かせてもらった。男性との間にだけは立てた卓球台で仕切りをしてもらって、暗い時は若干プライベートなスペースに思えなくもなかった。布団に入ればすぐに眠ったし、起きたらすぐに仕事が始まるので、どっちにしろそのプライベートな場所にはほとんどいた記憶がない。数日経ったら睡眠不足でフラフラになった。

5日目には仕事にも人にも慣れて福島の人たちをしみじみと好きになってきたが、一方で1日中仕事でくつろぐ時間はなく睡眠不足が続いていたこともあり、そろそろ帰りたいなと思い始めていた。帰るところがあることに申し訳なさを感じながら。
毎日食器を共有してそれを体育館の洗面所で洗い(乾かす場所はない)、みんなで食器用スポンジを共有するのも、私は一時のことだから構わないと思うものの、少しストレスだった。体育館の洗面台にはざるが置かれていて、そこに食器に残ったご飯などを捨てていた。私はスポンジを調達してもらって洗面台と調理場のものを替えたけど、それも必要ないと思った人がいるかもしれないし、私の気付かないところでもちょっとしたいろんなストレスを感じている人がいるだろう。大したことではなけれど、生活が長引くと厳しい。
これから暑くなったら、今のままではいけないことがいっぱいある。


最後の日は、朝9時には出発しないといけなかった。
朝7時半頃に朝食の配ぜんが始まり、食事を片付け、自分たちが食事をとり、荷物をまとめて、引き継ぎをして、挨拶をして避難所を出た。避難者の人たちにさよならを言う時間はなかった。でも、時間があったとしても何と言っていいかわからなかったと思う。みなさんどうしていらっしゃるだろうか。もう一度お会いしたい。いや、お会いしたいけどもそれよりも、それぞれの方の状況が良くなっていてほしい。


何をできたというわけでもなく、私ばかり勉強させてもらった1週間だった
実際にどんな風に避難した人たちが生活しているのかを見て聞いて、被災地の人の気持ちを少し近くで感じて、以前よりずっと福島のことが好きになって、福島の人たちと知り合って身近に感じるようになった。


帰って思ったのは、大したことをしていないのに、行かなかった人に比べて、行った私は何かを満足させた気がしたこと。

地震の後、何にもできない自分に無力感を感じて、辛くなった。多分多くの人が、今もそう思ってる。でも、私は今回の業務に行ったことで、自分だけがその辛さを少し緩和させたのではないかと思って、そんな自分に、「違う」「そんなことで満足するな」と言いたかった。


被災地の復興は、まだこれから。まだ始まりにすぎないので、できることをやっていく。ボランティアにも行くし、遊びにも、飲みにも、おいしいもの食べにも行くから。図書館員としても活動する余地があれば、ぜひとも。