ボランティア

この間読んだ本に、お釈迦さまにお寺を寄進した王様が、「私にどんな素晴らしいことが起こるか」と聞いた時、「何も」とお釈迦さまが答えたという話が載っていた。
見返りを求めて寄進を行うことへの疑問を表している。

ボランティアも、そうだと思う。
自分が「いいことしてる」って思ってるときは、あんまり人に言わない方がいいと最近さらに強く思うようになった。周りに話すと、「それはすごいね」と言われて、すごいことなんて、と思ったこともあれば「そういうとこに実際行っちゃう人がいるもんだね」と言われて、その他人事ぶりに悲しくなったこともある。しかし、人に言ったということはある種、人に認められたいというか、見返りを求める行為なのではないかと思って。だったら誰にも言わず、自分の信じたことをやればいい。


避難所勤務をしていた時、連絡員担当のお兄さんが何人かいた。彼らもまた、志願して被災地へ来た職員さんだ。彼らは避難所には入らず、県の合同庁舎に詰めて私たちの仕事がきちんと進んでいるかを時々見に来ては体調を気づかってくれたりお風呂に連れていってくれたりした。

ある時、避難所の統合が決まって、ある体育館に派遣されている人たちが急にひまになりそうになったが、その状況を本部に伝えて、次に派遣される人たちをどこに何人配置すべきかという調整をされていた。

被災地の状況は日々変わる。避難者の方たちの自主的な活動も盛んになってきたため、ボランタリーな気持ちで志願してやってきた私たちも、仕事がない状況に陥ることはありうる。

これは初めから肝に銘じていたわけだけど、別に私たちは自己満足のためとか、自分を成長させるためとか、そういう目的で被災地に入っているわけではない。やるべきことを粛々とやって帰るのみだ。やることがなければやらないだけのことだ。

とは思うのだけど、連絡員の方々は、せっかく志願した人たちに仕事がないのではね、と言いながら、一生懸命仕事のバランス調整をされていた。もしかすると、彼らの中にも被災地に入って避難所にも行かず避難者や被災者の人たちとも触れ合うことなく、本部との連絡ばかり
していて「こんなつもりで志願したんじゃなかった」と思った人もいたかもしれなかった。


その後、個人的にボランティアに行ったら、派遣されていた私たちのボランタリーな思いも、ボランティアで来ている人達からみたら、甘く見えるんだなと思わされることがあった。

隣県や市の職員さんが交代にボランティアセンターを運営しているのを見て「大変ですね」と言ったら、隣にいた、毎週週末に埼玉から南相馬に来ているというボランティアさんが「あの人たちは手当をもらって来てるんですしね」と言った。手当てをもらっている職員とは、1か月前の私だ。確かに、業務の一環として手当をいただき、交通費も出してもらって、体調も気遣ってもらって、職場から送り出されて被災地に入ったわけだ。

ボランティアは、自分で体調を管理し、交通費をお給料から捻出し、時間も捻出して来ている人が多い。人それぞれ事情は違うし、いろいろ気をつけるべき点はあるけど、やっぱり尊い行為だなと思う。

それとともに、公務員が被災地に派遣されるのも、職場の同意や仕事の段取りをつけて、放射能や余震も覚悟して来ているわけで、それなりに大変。それはその立場になってみないとわからないこともある。